#1 「ジュウ、ジュウッ。」 山本一力キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。
今回は、第1回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「ジュウ、ジュウッ。」をお届けします。
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「ジュウ、ジュウッ。」 山本一力
わたしのこども時分のおとなが、繰り返し言っていたことは……。
「楽な金儲けはない。汗を流してカネを稼げ」
「へとへとになるまで働いたあとなら、塩味だけの握り飯でもご馳走に思える」
おとなの諭しに、こどもは深くうなずいた。
町のどこにでもたっぷり残っていた原っぱで、身体を使って存分に遊んだ。
空腹にまずいものなし、と言う。
汗まみれになって遊んだあとは、麦飯混じりの握り飯でも美味かった。
こども時代のご馳走はと訊かれれば、わたしは迷わずスキヤキを挙げる。
母親の稼ぎでこどもふたりを養う母子家庭では、滅多なことでお肉は口に入らなかった。
昭和三十年代初期の高知は、一般家庭にガスは配管されてなかった。
焚き付けと消し炭を使っての炭火熾しはこどもの役目だ。
火熾しなしでは湯も沸かない。
いつもは面倒に感じたこの仕事も、スキヤキのときはうちわをあおぐ手の動きも軽やかだった。
竹皮に包まれた牛肉には、白い塊のヘットが添えられていた。
菜箸でヘットを掴んだ母は、熱くなった鉄鍋の上を走らせた。
ジュウ、ジュウと音を立てて脂が溶ける。その香りをかいだだけで、こどもはゴクンッと生唾を呑み込んだ。
脂を敷いたあとは、鍋の黒さが見えなくなるまで砂糖を散らした。
「お砂糖をけちったら、せっかくのスキヤキがおいしゅうのうなるき」
砂糖が高価だった時代だが、鍋を砂糖で埋めて、その上に牛肉を敷いた。
そして間をおかずに醤油をかけた。
母の手つきはぶっかける、だった。
砂糖と醤油をまとった牛肉は、ひときわ大きな音を立てて焼かれた。
頃合いよしと見定めると牛肉を隅に寄せて、東京ネギを加えた。
高知でネギといえば分葱をさす。太いネギは東京ネギと呼んでいた。
牛肉の旨味を吸ってネギが色づけば、スキヤキの仕上がりである。
「もう食べてもえいきに」
母の許しを得たこどもは、真っ先に牛肉に箸を伸ばした。
東京ネギ。焼き豆腐。糸ごんにゃく。水で戻した麩。
これらが常連で、あとの野菜は季節によって顔ぶれが変わった。
「水は野菜から出るき、足したらいかん」
煮詰まり気味になると、野菜を加えた。そしてその都度、砂糖と醤油で味を調えた。
母が没して、はや二十九年。
我が家のスキヤキ当番は、わたしの役目となった。
砂糖も醤油も目見当でたっぷり使うのは、おふくろ譲りの流儀。
長男がこの息遣いを会得しつつあり、当番交代も遠くはない。
汗を流してカネを稼いだのは昔。
当節では、カネを払って汗を流すひとの姿もめずらしくはない。
そんな時代にあっても、砂糖と醤油だけで味つけするスキヤキの美味さは変わらない。
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「おいしい記憶」が、明日への力になりますように。
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